随想録

ひとしずく…

ひとしずく…

 

森岡侑士のエッセイVol.6   

2021年4月12日

ことばはどこへ? 3 困った辞書」

 ごく普通には、日本語の語彙の意味を検索する場合、言葉の世界の総本山と信じて国語辞典を利用するのですが、その過程で、時には「オャ」と立ち止まらざるを得ないような事態に遭遇することもあります。

 辞書づくりが、大変な労力・知力、そして時間を要することは容易に想像できます。ですから、単純な「てにをは」のミス(誤記)や、思わず吹き出したくなるようなミスがあっても余り驚きませんが、以下に取り挙げる事例は、辞書編集の方針がどこにあるのか、まるで狐につままれたような気になるものです。

 K社の国語辞典は、昭和41年(1966年)に初版が出ました。監修者として、お三方が名を連ねます。初版から15年後に新版が出され、その折には、監修者のうち先輩格のお一方が既に逝去されており、残るお二人の名で「新版序」が記されています。「・・・われわれとしては、先生がこの辞書のために種々配慮された御厚恩を憶念するとともに、・・・。」 さて困ったことに、この「憶念」がこの辞書には語彙として登載されていないのです。序文とはいえ、辞書の一部に現われた語彙を、他の辞書で検索するという、いささか滑稽ともいえる事態が発生しているのです。

 こういう事態は何故発生するのか、色々と邪推も出来そうですが、ともかくも辞書利用者からしてみれば、後味の悪いものです。何かの間違い(うっかりミス)でこんなことになったのだろうと思いきや、実は他にも同様な事例が見つかりました。こちらはS社の小さな類語辞典です。監修者のメッセージには、「・・・私自身が論文を草する場合などに、・・・」という記述がありますが、この「草する」が同書のどこにもないのです。

監修者ないしは編集者は、登載すべき語彙の必要性を、ある方針のもとに決めるのでしょう。新語・流行語・外来語・技術用語・方言など、省かれた語彙の行方はどうなるのか、言葉の問題の錯雑とした様相を思い知らされる気がします。無論それがこの怪奇な世相の一側面であり裏面でもあることを物語っているに違いはないのでしょう。

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森岡侑士のエッセイVol.5     

2021年3月8日

ことばはどこへ? 2 辞書の怪」

 コロナ禍の発生から早くも1年、東日本大震災から早くも10年。時は容赦なく過ぎて行き、様々な規模で「ひと」に圧し掛かる「災い」の方が、「ひと」の側の編み出すテクノロジーを凌駕しそうな危惧も現実のものでしょう。これからの数10年間、ふと、「ひと」の生存に、かなり厳しい条件が自然の側から課せられるように思えてなりません。

 そのような仮説的条件を頭に入れつつ、「ひと」の側にとって、なにが大事なことになるのかと考えますと、上記の「テクノロジー」の基盤でもある、広義の「ことば」の世界が思い浮かびます。しかしながら、日々の「ことば」の流通の場面では、それこそ情報の大津波が遠慮もお構いもなく押し寄せて来ます。そして、反面では、情報の隠蔽が臆面もなく行われるのが実情です。筆禍も舌禍もごく日常の「ことば」の災いです。

 そこで、「ことば」の世界の総本山とも言うべき「辞書」って何だろうという問いが浮かんできます。「辞書」は、「辞書を引く」のような表現で、日常的にも親しみがあります。「字引」もくだけた言い方でしょうか、「字引に当たる」もごく普通のようです。

さて、辞書を求めて書店に急いだと仮に想像してみましょう。店員さんの示すコーナーで、はたと気づくのは、国語辞典に限らず、各種の言語の「○○辞典」の山で、「○○辞書」と背表紙に読めるものは皆無に近いことです。もちろん、由緒ある、いわば固有名詞化したもの(例えば、「広辞苑」)や、「○○事典」また「○○字典」はありますが、ほんのわずかでしょう。つまりは、「辞書を引く」や「字引に当たる」といっても、実際には「辞典を調べる」とでもいう行為のことを指しているのです。

 この間の消息は、ある辞書によりますと、<(辞典は)明治以降、辞書名に用いられるようになって広まった。>とあります。また、別の辞書によりますと、「典」は<人のふみ行うべき道をしるした書物。たいせつな書物。>とあり、例としては、「典籍、教典、経典、聖典、仏典、外典、文典、国典、楽典、辞典、宝典、原典、古典」が挙げられています。多分「法典」もこの例でしょう。どうやら、「典」の方が「書」よりも「格」が上、つまり、「辞典」の方が「辞書」よりは「偉そう」ということなのでしょうか。「上級国民」という語彙が最近揶揄的に仕立てられましたが、さて、辞典の世界にも「不可思議」なことも多々あるようですので、次回以降に少し紹介しましょう。

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森岡侑士のエッセイVol.4     

2021年2月8日

「  ことばはどこへ? 1」

東日本大震災・原子力災害から10年、被災した福島県双葉町の中心部に残された道路をまたぐ長さ16メートルの看板が、当時の報道でも話題になり、強く印象に残ります。1987年に、小学6年生が宿題で考えた原子力で始まる標語が、その看板に大書されています―「原子力/明るい未来の/エネルギー」。話題になったのは、もちろん福島第一原発の災害が地元に及ぼした影響のすさまじさが、この標語の明るい楽天性と対比され、乖離した姿が目前に顕現したことに依るのでしょう。

ここで取り上げたいのは、原子力エネルギーの評価ではなく、言語表現における形と内容のことです。「原子力/明るい未来の/エネルギー」―滑るように素直にあの5/7/5という伝統的形式を踏襲しています。ですが、標語の中身の真実性というよりは、形に収まることの軽やかさが先行してしまい、原子力の怖さを人々の意識から軽やかにかき消してしまう作用がありはしないか、と思えてきます。

 昔話になりますが、1970年当時、大阪での万国博覧会の計画に関係していましたので、まだ開発途上の千里ニュータウン辺りに居を構えたことがありました。夜も更けて、帰路はまだ工事中だったりしますが、道端の電柱などに、縦長の看板が括られてあり、そこに「標語」が書き付けてありました。多くは警察署や地元団体が掲出するものでした。そうした中で、「気をつけよう/甘い言葉と/暗い道」というのが目に着き、夜道の現実からすれば、納得できるものがありました。無論、これも5/7/5に素直に順応したもので、訴えかける力はさほど強いものではなく、すぐに意識の外に追いやってしまうのが実際のところでした。そのうちに、未だに忘れ得ないエースが登場しました―「痴漢は/夏バテ/しません」。形式の甘さを払拭し、一途に剛速球を投げ込み状況をズームアップしたものです。ふと、これが大阪だ(!)と言いたくなるような直截な表現は、力がみなぎるようで、大いに納得したものです。ただ、よく見れば、これは4/4/4と形が整っているのですが、偶然のなせるところと理解しておきましょう。

いずれにしても、身近な言語表現にも、内容と形式のせめぎ合いが、原発の例を引くまでもなく、本当は日常的にももっと意識される方が好いと感じています。

  

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森岡侑士のエッセイ    vol.3     

2020年12月30日

「カタカナ英語」

私たちは、新型コロナウイルスの勢いが止まりそうにないという、未曾有の難しい社会環境の中にあります。感染の第3波の拡がりに加えて、ウィルスの変異種までもがこの島国に上陸しました。この実状を捉えたり対処してゆくには、既存の言葉では間に合わず、勢い聞きなれないカタカナの外来用語を引き込まざるを得なくなります。「パンデミック」、「ロックダウン」、「クラスター」、「リモートワーク」などなどが、登場しました。そうした中で、どうやら「ソーシャル・ディスタンス」という言葉の評判が芳しくないようです。直訳すれば「社会的距離」、このコロナ禍の場面で例示しますと、レジで列をなして並んだり、待合室のソファーに座る場合などの人と人の「間隔」を表わします。

最近のある新聞の読者投稿では、この「ソーシャル・ディスタンス」に対して、「カタカナの和製英語は誰が作っているのだろうか」という疑問が投げかけられています。投稿者は、「感染防止のために間隔を空けることは『ソーシャル・ディスタンシング』が正しい」と主張します。その通りで、要は「間隔」そのものを「ディスタンス」、「間隔を空けること」は「ディスタンシィング」と理解すればよく、「ソーシャル・ディスタンス」を和製英語と非難するまでもないでしょう。ちなみに、この言葉は、アメリカの文化人類学者エドワード・T・ホールが1950~60年代に取り上げた概念・用語で、彼の主著『沈黙のことば』や『かくれた次元』は50年ほど前に日本語訳が出ています。

 なお、WHOはこの「ソーシャル・ディスタンス」が社会的に距離を置く(隔離とか差別)という負のイメージがあるとして、physical distance(物理的ないし身体的距離)を用いることを推奨している由です。「ソーシャル・ディスタンス」は物理的な遠近のみではなく、社会的存在としての人間の持つ時間的や心理的などの様々な「距離感」も含むものです。人々の隔離と孤立というこれからの日本にとっての大きな社会問題を、こうした概念から今一度考え直してみる時に来ているように思えます。「コロナウィルスの置き土産」があるとすれば、それは私たちの社会的距離に対する理解や態度から生れるのかもしれません。   

                       

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森岡侑士のエッセイVol.2    

2020年10月24日 

「観光って?」

 経済のグローバル化の帰結とも関連するのでしょうか、ここ5年ほどの間に、「観光」と言われる面での世界の人々の移動現象が、情報通信技術と同調して、急速に拡大して来たようです。「インバウンド」だ、「クルーザー」だ、「爆買い」だと、聞き馴れていなかった言葉が日常的に報道の場面で踊ることになりました。

 私の住む太宰府市では、年間観光客が確か5年ほど前には400万人、それでも随分多いという印象でした。当時、中国は南京で講演の機会があり、中山陵に案内されました。太宰府での年間観光客の話になり、この400万という数字を伝えますと、「ああ、ここの一月分ですね。」ということでした。その後瞬く間の増加で、現在公称で900万人といわれていますが、その数字に疑いの眼を向ける人々もいます。

 分かり易くは、現在の大宰府の都市人口がほぼ7万人ですから、雑な計算で、人口1人当たり年間約130人、一家の人数を3人と仮定しますと、実に年間約400人の来客ということになります。観光客の増加によって、市の財政が潤ってくる面はありますが、交通渋滞をはじめ、市民にとってはマイナスになる側面も生じてくるのも事実です。何かの住民の会合で、天満宮への観光客のことを、「参拝客」ならぬ「産廃客」と揶揄する人々が出て来るのも致し方ない面もあるように思えてきます。

 今年の春から、パンデミックな新型コロナウイルスの拡散防止対策として、人々の接触や外出が大きな制約を受けることになりました。そうした状態のさなかで、ともあれ、個々人にとって「観光」という行為が何なのかをしっかりと考え直してみる必要もあり、そのための良い機会だとも思えます。私なりには、無論個人の「好み」なのですが、例えば、チェコの首都プラハで、市内のどこまでも続いていそうな石畳、人々の暮らしそのものを物言わずに支え続けてきた礎を踏みしめることです。決して「観光」という言葉に左右されずに、住民が大事にし、ささやかでも、生活や風土、歴史そのもののイメージを彷彿とさせてくれる宝物の探訪こそ、「光を観る」ことに通じていると思えます。 


                       

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森岡侑士のエッセイVol.1   
2020年9月21日  

「リズムに向けて」

                   
10年ひと昔」などと言いますが、一層のこと50年(半世紀)ほど飛んでみます。つまりは、大昔の話です。

 1970年、大阪で日本では初めての万国博覧会が開催されました。会場計画・設計は丹下健三氏の総指揮の下、名だたる建築家諸氏も加わった、国を挙げての大プロジェクトでした。各パビリィオンも、建築技術や照明、音響などで妍を競い、1964年の東京オリンピックとは一味異なる華やかさでした。既に各地での公害の顕在化もあったのですが、アポロによる月面着陸の技術をもってすれば、世界の貧困は解消できる、などという勇ましい論調もありました。いずれにしても、そのテーマであった「進歩と調和」は表面的な、軽いものという印象でした。敢えて言えば、「進歩」の側面に目を奪われ、「調和」の何たるかに眼をそむける、ということでしょうか。

 大阪万博以降、1974年のオイル・ショックを経て、地球環境の劣化が世界的な話題や課題となりました。地球環境への人間の関わり方は、「持続可能な開発」であるべきだという訳です。これは、1986年に国連のさる委員会が提唱したもので、その定義は僅か数行のものながら、極めて分かり難いので困ります。端的には、「未来を直視し、次の世代の利益を守る」ということのようです。地球のリズミックなサイクルを乱してはいけない、と読めそうです。ならば、『平家物語』の第7巻にある、「流れにいる魚を全て取る時は、多くの魚を得るけれども明年に魚はいない。林を焼いて狩りをする時は、多くの獣を得るけれども明年に獣はいない。・・・少しは残されるべきであったのに・・・。」という表現と同じようです。この平家物語(1240年頃)の引用は、中国の『呂氏春秋』(前240年頃)に依りますので、今からしますと、何と2300年近くも昔のことなのです。これほど端的に持続可能性の条件を示しながら、恐らくそれは、極少数の民族での伝承としてしか今に残らなかったのでしょう。

 2025年の日本国際博覧会のテーマは、「いのち輝く未来社会のデザイン」だそうです。ともあれ、森羅万象に顕在又は潜む「リズム」を探り当て、交感してゆくことが、まずはの「持続」への道なのかもしれません。
                      

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森岡侑士(もりおか ゆうじ)

1941年満州生まれ、中学2年まで福岡県(旧)八幡市黒崎で育ち、建築家・丹下健三氏の影響で、東京大学工学部都市工学科へ進学。
在学中にイタリアでの技術研修に参加。卒業後、氏がプロデューサーを務めた大阪万国博覧会(1970年)の会場設計に携わる。その後、磯崎新氏の下で、同博お祭り広場の演出デザイン担当。
翌年、イタリアのフィレンツェ大学建築学部に留学、帰国後、丹下健三氏によるサウジアラビア王国南部地方開発計画にプロジェクト・ディレクターとして参画。以来、海外の業務(インドネシア、タイ、フィリピン等)に眼を向けた。特に南米コロンビアでは通算6年間にわたり、中央勧業銀行と国家企画庁のアドバイザー等を務めた。

帰国後、九州産業大学に籍を移し、福岡市等関連の多くの審議会や委員会に関わり、とりわけ新宮町の新中心市街地の形成に努めた。一方、科学と芸術の関係への興味から、霧の彫刻家・中谷芙二子氏と多くのコラボレーションを行っている。実験物理学者として世界の雪研究をリードした氏の父・中谷宇吉郎の記念財団の理事も務める。

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